目の前の光景に、ロイは惚けたままフラフラと
ピアノの側まで近づいていく。
女神はロイに気づかず、一心不乱に、目を閉じて
気持ち良さそうにピアノを奏で続ける。
雨の音と
ピアノの音と
世界にはそれしか音がなく、
むしろ、その世界にこそが、本来の世界の在り方なのかも
しれない・・・・。
そんな事をボンヤリと考えながら、ロイはジッと
女神を見続けた。
だが、始まりがあれば終わりもある。
夢のような時間の終わりを告げたのは、皮肉にも、
思わず洩らしてしまったロイの声だった。
「君は・・・・・・。」
誰なんだ?
ロイの掠れるような声に、ピクリと反応した女神は、一瞬怯えた目を
ロイに向けた。
ロイの漆黒の瞳。
女神の黄金の瞳。
一瞬だけ絡まった視線は、次の瞬間、脱兎のようにその場から
逃げ出した女神によって、一方的に断ち切られる。
「待ちたまえ!!」
惚けてしまったが為に、自分の横を擦り抜けていく女神を、
ロイは捕まえ損ねて、舌打ちをする。
「!!」
慌てて後を追って、音楽堂から出るが、そこに女神の姿は
なく、ロイは茫然と立ち尽くす。
先程までの事が、まるで嘘であるかのように、いつの間にか
雨は止んでいた。
「ロイ〜。最近、お前、評判が悪いぞ〜!」
いよぉ〜と、相変わらず能天気に化学準備室にやってきた
ヒューズは、次の瞬間、思わず自分の目を疑った。
「ロ・・・イ・・・だよ・・・な?」
憔悴しきった目を向けるロイに、ヒューズは恐る恐る
声をかける。
「何を馬鹿なことを・・・・。それより、何か用か?」
「九日、十日・・・・・・って軽いジョークじゃねーか!!
硫酸の入ったビンを置け〜!!」
硫酸の入ったビンを振り上げるロイに、ヒューズは
青くなって、部屋の隅に逃げる。
「・・・・たく、一体お前はどうしたんだよ。付き合いが悪く
なったって、評判だぞ?」
硫酸の入ったビンを机に置いたのを見計らって、
ヒューズは、頭をワシャワシャ掻きながら、ロイに
近づく。
「別にどうもしないさ。」
ロイは自嘲した笑みを浮かべると、窓の外へ
顔を向ける。1階に設けられた、化学準備室の
窓からは、下校する生徒の姿が良く見える。
下校する集団を、ロイは、まるで何かを探すように、
縋るような視線を向けている。その事に気づいた
ヒューズは、フムと顎に手を当ててロイに話しかける。
「誰を捜しているんだ?」
「・・・・・・・・・・・。」
無言のロイに、ヒューズは眉を顰める。
「だんまりとは、水臭いじゃねーか。名前さえ教えて
くれれば・・・・・。」
「・・・・知らないんだ。」
ポツリと呟かれるロイの言葉に、ヒューズは耳を疑う。
「お前が相手の名前を聞けなかった!?」
「・・・・・聞く前に、相手に逃げられた・・・・。」
ガックリと肩を落とすロイに、ヒューズは顔を顰める。
「お前・・・・・相手に逃げられるような事をしたのか?」
まさか有無を言わさずに襲ったんじゃ!!と顔色を
変えるヒューズに、ロイは鋭い視線を向ける。
「貴様!私を何だと思っているのだ!!」
「だってよぉ〜。逃げられたって聞けば、誰だって
そう思うだろ?」
不服そうな顔をするヒューズに、ロイは頭を抱え込む。
「そうじゃない・・・・。彼女は、音楽堂にいたんだ・・・。」
「音楽堂?そりゃまた危険な事を・・・・・。」
老朽化が激しく、いつ天井が崩れてもおかしくないため、
立ち入りを禁止している事は、生徒達にも十分伝わって
いると思っていただけに、ヒューズはショックを隠し切れない。
何かあってからでは遅いのだ。だから、ロイは必死になって
捜しているのだろうと、その時ヒューズは思った。
「とりあえず、ホームルームで伝えてもらうようにすれば・・・
おい?ロイ?どうした?」
未だ縋るような目で生徒達の姿を見つめているロイに、
ヒューズは訝しげな声を上げる。
「・・・・・名前すら聞けなかった・・・・・。」
ポツリと寂しそうに呟くロイに、ヒューズはガガーンと効果音を
伴いながら後摺さる。
「ロイ・・・まさか・・・・お前・・・・・。」
ロイの様子に、つい数ヶ月前までの自分の姿がありありと
蘇り、ヒューズは唖然となった。
”このロイの様子は、まさに俺が女神グレイシアに出逢った
直後と同じもの!!あの時俺は、わが愛しのグレイシアに
どう声をかけていいのか判らず、1人悶々とした日々を
過ごしていたのだが・・・・・。そうか・・・・ロイの奴にも
とうとう!!”
ヒューズは、メガネを取ると、溢れ出る涙を拭う。とうとう親友にも
春が来たのかと、咽び泣いていたが、ふと我に返ってある事に
気づくと、真面目な顔でメガネをかけ直し、ヒューズは恐る恐る
ロイを見る。
「ロ・・・イ〜。つかぬ事を聞くが・・・・お前が捜している娘は、
うちの生徒か?」
「・・・・ああ・・・・うちの制服を着ていたな・・・・。」
はぁ・・・とため息をつくロイに、ヒューズは、顔色を青くさせる。
「ちょっと待て!ロイ!目を覚ませ!!生徒に手を出しては
いかん!!」
ヒューズは、ロイの両肩を掴むと、ガクガクと揺さぶった。
「いきなり何をする!!」
ロイは驚いてヒューズの手を振り払う。
「ロイ。仮にもお前は教師なんだぞ!その自覚をだな!!」
「何を言っているんだ?」
ロイは嫌そうな顔を向ける。
「お前が何を心配しているか知らんが、別に彼女に手を出そうとは
思っていないぞ!!」
憤慨するロイに、ヒューズは疑わしそうな目を向ける。
今までの来るもの拒まぬ主義が、ここで大きく信頼を失っている
事に気づき、ロイは咳払いをする。
「・・・・ただ・・・私はもう一度彼女のピアノが聞きたいだけ
なんだ・・・・・。」
そう言って、寂しそうな顔で外を見つめるロイに、ヒューズは
絶句する。
”バーカ。それを【恋】っつーんだよ・・・・。”
ヒューズはため息をつきながら、頭をガシガシとかき回す。
モラルとして、教師が生徒に手を出すのを阻止したいが、
ロイの親友としての立場から、ロイの恋を応援したいのも
事実だった。
「で?その子の特徴は?」
「ヒューズ?」
キョトンとなるロイに、ヒューズはニヤリと笑う。
「音楽堂の事を注意するんだろ?」
そんなにピアノが上手いのなら、俺も聞きたいし?と
悪戯っぽくウィンクするヒューズに、ロイは嬉しそうに微笑んだ。
「あれは夢だったのか・・・・・。」
ロイは、ため息をつきながら、日課になりつつある、音楽堂
参りをする為に歩いていた。あの後、美術教師、アレックス・
ルイ・アームストロングの協力を得て、似顔絵まで作成した
にも関わらず、黄金の髪に黄金の瞳を持つ少女の行方は
分からずじまいだった。
「もしかして、他校の生徒が、面白半分に潜り込んだのかも
な・・・・。」
他校なら、音楽堂が立ち入り禁止になっている事も知らない
だろうしな・・という、ヒューズの言葉に、ロイはガックリと
肩を落とした。
「我ながら未練がましいな・・・・。」
ロイは傘をずらして、音楽堂を仰ぎ見る。あの時と同じ小雨が
降る日だというのに、彼女の存在がない事が、ロイの
心に暗雲をもたらしていた。何時までもここに佇んでいるのも
馬鹿らしいと、踵を返したロイの耳に、ピアノの音が
飛び込んできた。
「!!」
ロイは慌てて振り返ると、じっと扉を凝視する。先程まで
気づかなかったが、あの時と同じに少しだけ開かれている
扉に、ロイの胸は高鳴る。
逸る気持ちを抑えつつ、ゆっくりと扉を開け放った瞬間、
舞台中央に置かれたグランドピアノの前に座っている
黄金の髪を目にし、不覚にもロイは涙を一筋流すのだった。