1.  世界の果て

 

             そこは何もない空間だった。僅かな光さえもない、漆黒の空間。
             「立ってる。ってことは、足場はあるんだよな。一応。」
             ボクは、腕を組みながら、うーんと唸った。一体、どうしてボクは
             ここにいるのだろう。気が付くとここに“存在”していたのだ。
             何もないとわかっているが、それでも周りをキョロキョロと見回して
             しまう。やはり、漆黒の闇に、いささかうんざり気味に視線を落とす
             と、その時だった。右の目の端に、白い影が横切ったのは。慌てて
             右を向くと、白い影が遠ざかって行くのが見えた。
             「まっ、待ってくれ!」
             慌ててボクは、その白い影を追いかけた。何故かって?そんなの
             知る訳がない。気がつくと身体が勝手に動いていたんだ。まぁ、
             条件反射ってやつさ。第一、あのままボーッと突っ立っているよりは、
             ここを抜け出せるであろう、僅かな可能性にかけてみようと思うんだ。
             ボクが全力疾走しているにも拘らず、白い影との差は、縮まるどころか
             ますます遠ざかっていく。
             「もしかして、ボクって、すごく足が遅いのかなぁ。」
             ぜぇぜぇ言いながら、そんな事を呟いてみる。だって、周りが闇
             だから、スピード感覚ってもんが、まるでない。ついでに言うと、
             距離感ってものも皆無だ。もうどれくらい走ったのか全くわからない。
             それでも、疲労感から、だいぶ距離を走ったはずなのだが・・・・。
             気が付くと、目の前に巨大な扉が出現していた。どれだけ巨大かと
             言うと、自分が豆粒になったような錯覚を起こしそうだと言えば、
             分かるかなぁ。そんなもんが、いきなり目の前に現れてごらんよ。
             ボクじゃなくっても、口を大きく開けて、呆然としちゃうさ。そしたら、
             どこからか、笑い声が聞こえてきた。鈴を転がすような、可憐な声。
             誰だろうと、振り返ると、そこにはさっきの白い影がいたんだ。
             「こんにちは。」
             挨拶してしまって、しまったと思った。相手はどう見ても人間じゃない。
             別に挨拶する必要なんてどこにもないんだよねぇ。でも、口から出て
             しまった言葉は、引っ込めようがない。しょうがないから、にっこりと
             笑ってみることにした。そしたら、驚いたことに、白い影はクスクス笑い
             出すじゃないか。ラッキー。言葉は通じるみたいだ。気を良くしたボクは、
             さらに言葉を繋げようとした。が、それよりも先に、白い物体が話し
             かけてきた。
             「あなたは誰?」
             ボクは・・・・・と、言いかけて、次の瞬間、言葉に詰まってしまった。
             そうだ。ボクは一体誰なんだろう。何も答えないボクの周りを、
             白い物体は値踏みするようにグルグルと回り、やがて目の前で
             止まると、別の質問をしてきた。
             「何処から来たの?何でここにいるの?」
             それは、こっちが聞きたい!と心の中で叫んだ。だが、混乱する頭
             では、一言呟くのが精一杯だった。
             「わからない・・・・・。」
             「あっそう。」
             そう言うと、白い物体は、ふわふわと何処かへ行こうとした。慌てて
             ボクは引き止めた。
             「ち・・・ちょっと待ってよ。」
             「何?」
             引き止めたのはいいけど、次に何て言っていいかわからない。第一、
             白い物体も不親切だよなぁ。こういう場合、普通親身になって、相談に
             乗ってくれるんじゃないのか?まぁ、記憶喪失のボクが言うのも、
             なんだけど。そう思ったら、なんだか怒りが込み上げてきた。
             「“何”じゃないだろ?こっちは記憶喪失でパニクッてるんだから、
             もっと他に言いようがあるだろ?」
             「だって、私には関係ないもの。」
             そりゃそうだけど・・・・・・。ボクは途方に暮れてしまった。ボクの困惑が
             伝わったのか、白い物体は助け舟を出してくれた。結構いい奴なんだ。
             「まぁ、質問に答えてあげてもいいわ。」
             「じゃあさ。ここは一体何処なんだい?」
             「世界の果て。」
             世界の果てって・・・・・。もう少し具体的に答えてくれないかなぁ。などと
             思っていたら、白い物体は、そのまま言葉を繋げた。
             「“薔薇の柩”と呼ばれる所。ここに“魔女”が、“薔薇の王子様”の力の
             源を封印したから、この世は闇に覆われてしまった。」
             白い物体の言うことは、まるでわからなかったが、何故かようやく“ここ”に
             辿り着いたという、奇妙な安堵感があった。“薔薇の柩”、“魔女”、“薔薇の
             王子様”が何かのキーワードなのか、あと少しで全てを思い出せそうな
             気配に、苛立ちだけが募っていく。
             「まぁ、その指輪は・・・・・。」
             白い物体は、ボクの左薬指に嵌められている、薔薇の刻印の指輪に
             気が付いたようだ。
             「そう、あなただったの・・・・・。では、儀式が始まるのね。“薔薇の
             陽継ぎ(ひつぎ)”の儀式が・・・・・。」
             何のことか分からず、茫然としているボクに、白い物体は高らかに宣言
             した。
             「時は満ちた。ここに“薔薇の花嫁”となるべく、“薔薇の陽継ぎ”の
             儀式を執り行う!」